ベルカント音楽学院

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ドヴォルザーク

今回はブラームスに見出されたチェコの作曲家、ドヴォルザーク(1841-1904)。
肉屋と宿屋を営んでいたごくごく普通の家に生まれる。
父はツィターを弾き作曲も。伯父はトランペットの名手でした。
彼は6歳でヴァイオリンを習い始めると見る間に上達し、宿屋で弾いたり9歳で楽団でヴァイオリン奏者として活躍し音楽的才能を見せ始める。
しかし、父は肉屋を継がせたかったので彼を修業に出すが、、、
そこでもドイツ語の教師(教会音楽家でもあった)から音楽理論の基礎知識を学ぶ。
経済的な問題で両親は彼が音楽の勉強をすることに反対。
教会音楽家たちのサポート、そして伯父の援助を受け彼は16歳でオルガン学校(音楽全般を学べる)に入る。
その後、苦学して音楽を学び、ヴィオラ奏者をしながらコツコツと作曲する。
オーストリアの奨学金制度の審査に1875年から5年にわたって合格し、資金を得る。
1877年の時に審査員だったブラームスに認められ道が開かれていった。
その時すでに35歳になっていた。
(彼は実直で努力の人、少しずつ成功を手に入れるのだった。)
1873年に結婚し、最終的に9人子供が授かるが、1875〜1877の短い間に3人の子供を立て続けに亡くしている。
その亡くなった子供たちへの想いを込めて作曲された”スターバト・マーテル(悲しみの聖母)”は有名です。
1892年〜1895年は、ニューヨーク・ナショナル音楽院の院長職をこなす。(大変激務であった)
彼はネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌を吸収し、自身の作品に反映させている。
交響曲第9番「新世界」と弦楽四重奏曲「アメリカ」の傑作が生まれたのもこの時期です。
ブラームスも大変喜んだとのこと。
アメリカから帰国し、プラハ音楽院に戻った後は多くの栄誉が与えられた。
ドヴォルザークには、尿毒症と進行性動脈硬化症の既往があり、1904年4月に再発。5月1日、昼食の際に気分が悪いと訴え、ベッドに横になるとすぐに意識を失い、そのまま息を引き取った(62歳)。死因は脳出血だった。
彼の性格は、紳士的で真面目で落ち着いた雰囲気で社会性があり、”理想の夫”。
ただ、大の機関車🚂好きなのだ。
駅に機関車を眺めに行くのが趣味だった。
列車の時刻表やシリーズ番号、さらには運転士の名前までも暗記していたと🙀
あの名曲「ユーモレスク」の冒頭の独特なリズムは列車の走る音にヒントを得て作られたとされているのは有名な話。
それでオーストリアのグラーツから、ウィーン経由し、チェコのプラハ間を運行する特急列車「レイルジェット」には「アントニン・ドヴォルザーク号」と名前が付けられている🫢
ニューヨークにいたころには、船にも興味を持ち、1週間に2度ほどは波止場へ行き船を眺めていたとのこと。
それから鳩🕊好き🤍で飼っていた。
何となくほんわかとしたムードのドヴォルザークの人気は頷けますね😊