ベルカント音楽学院

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チャイコフスキー

今回はロシアの作曲家、チャイコフスキー(1840-1893)。
祖先がウクライナ出身のチャイコフスキーは、
ウクライナを自分の故郷だと考えていた。
彼の曲は、クラシックはどうも苦手・・・という方にもスッと心に馴染み引き込まれていき、ついつい涙腺が緩む・・・そんな魅力のある作風。
彼がとても愛した2歳下の妹がウクライナに住んでいて、彼はそこで1年くらい過ごした。
「私は、モスクワとサンクトペテルブルクでは得られなかった心の平和を、ウクライナで見つけました」と。
そこは彼にとって、平和と癒しの空間だった。
彼は創作に必要な心の平和をそこで求め、ピアノ協奏曲1番や交響曲2番を含む約30曲を作曲した。
ウクライナは、彼を心理的行き詰まりから解放したのだった。
いつ聴いても美しいチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番は、ウクライナと深い関わりがあり、最初の楽章と最後の楽章は、ウクライナ民謡からテーマとメロディーの一部を借りている。
彼は裕福な家に育ち、早くから音楽的素養を身につけ才能を発揮するが、両親の意向で法務省の職へ着くが、音楽の道を諦めきれず23歳の時に本格的に音楽家の道へと進む。
容姿はというと、スラリと長身でセンスが良く、整った顔立ち。
だが、性格は非常に繊細で情緒不安定なタイプ。
何人か女性と付き合うが、婚約まで行って破綻するとか、結婚したが3ヶ月で別れてしまう・・・
本当はゲイだったのではないか?と言われてる話は有名です。
(結婚はゲイがバレないようにカムフラージュだったと言われてる)
富豪の未亡人メック夫人から見染められ、14年間、お互いに一度も会う事なく毎年多額の援助をもらい、精神的にも支えてもらう。
その未亡人とは、なんと1300通もの手紙のやり取りをしている。
交響曲第4番はそのメック夫人に捧げられました。
(メック夫人は公的な献呈として受けとらず、あくまでも一歩引いたところで支援を続けていた)
独身のまま53歳でこの世を去る。
死因には、彼がある貴族の甥と男色関係を結んだため、この貴族が皇帝に訴えて秘密法廷なるものが開かれ、そこでチャイコフスキーにヒ素服毒による自殺が決定・強要されたという説があるが、
現在ではコレラおよび肺水腫によるものとされている。
交響曲第2番 ハ短調作品17は、
チャイコフスキーが1872年に作曲した交響曲で、
3つのウクライナ民謡を用いており、愛称は『小ロシア』。
だか現在、「小ロシア」→「ウクライナ」と名前変更して演目に載せたり、
チャイコフスキー作曲の曲が演奏会で取り下げられたり、、
また、チャイコフスキー国際コンクールが「国際音楽コンクール世界連盟」から除名されたり、、
本当に心が痛みますね。
最後まで読んで頂きありがとうございました♪