ベルカント音楽学院

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ガブリエル・フォーレ

ガブリエル・フォーレ(1845-1924)
はフランス南西部のパミエというピレネー山麓の地に生まれた。
まったく音楽家の家系では無いが、ある時、盲目の老女にこの子には楽才があると告げられ、専門的な音楽教育を受けさせよ、と父親に言ったという逸話がある。
さすが吟遊詩人(トルバドゥール)ゆかりの地らしい言い伝えです。
サン=サーンスにピアノと作曲を教わり、一番弟子としてサン=サーンスが亡くなるまで親密な関係を続けた。
無頓着な南国人気質であり、
祭りの夜に踊りあかして、着替える暇もなく、エナメル靴と白タイ姿でミサのオルガンを弾いて、
ブルターニュの信者たちを怒らせてクビになったことがあるとのこのこと🤣
フォーレの音楽は小規模編成の楽曲が多く、サロン音楽と称されるが、そのメロディーは高貴さ、崇高さに溢れている。
とくに中期から晩年にかけては、
規模の小さな作品においても、
ただ柔らかく上品で洗練されているというだけではなく、
伝統的なあらゆる手法を駆使した、独自の緻密な構成によっている。
フォーレは1896年にフランス国立音楽・演劇学校の作曲科教授となっており、その門弟にはモーリス・ラヴェルがいた。
この時のフォーレの改革で、
入学前の生徒の教授との癒着を避けるため、
音楽院の外部者に入学審査を行わせたことは、
現在でも受け継がれているという。
彼は優れた音楽教育者だったのだ。
女性関係はというと、
教会オルガニストであったことから敬虔なカトリック教徒というイメージが強いが、
フォーレ自身、必ずしもそうでないことを認めており、
結婚後も愛人たちとの交際を続けている。
彼は、裕福な銀行家の妻でプロ並みの歌の才能の持ち主で、音楽界では有名なエンマ(のちにドビュッシーの妻となる)と関係を持ち、
娘まで生まれていたらしい。
(公にはエンマの旦那の子と思われていた)
彼の作品に、
4手ピアノのために書かれた、
ピアノ組曲『ドリー』(Dolly)Op.56(1893年 – 1896年)
【1. 子守歌 / 2. ミ-ア-ウ / 3. ドリーの庭 / 4. キティー・ヴァルス / 5. 優しさ / 6. スペインの踊り】
があるが、
この「ドリー」とは、
フォーレが可愛がっていた子供で、エンマとフォーレの子ではないかとする説もある。
愛らしいメロディからなる小品集で、
子供の世界を描いている点でシューマンの『子供の情景』やドビュッシーの『子供の領分』を連想させる。
ちなみにドビュッシーの『子供の領分』は、エンマとの子供の愛称”シュウシュウ”を題材としている。
ということは、組曲『ドリー』と『子供の領分』とはまさしく姉妹作ということになりますね。
なお、フォーレと妻マリー・フルミエとの間には息子が2人がいる。
また、フォーレの孫とされるフォーレ・ハラダという日仏混血の画家がいます。
晩年には、難聴に加えて高い音がより低く、低い音がより高く聞こえるという症状に悩まされながら作曲を続けた。
1906年に、フォーレは妻にあてた手紙でピアノ四重奏曲第2番のアダージョ楽章について触れ、
「存在しないものへの願望は、おそらく音楽の領域に属するものなのだろう」と書いている。
また、1908年には次男フィリップに「私にとって芸術、とりわけ音楽とは、可能な限り人間をいまある現実から引き上げてくれるものなのだ」と書き残している。
79歳の時、
肺炎のためパリで死去した。
マドレーヌ教会で『レクイエム』の演奏される中、国葬が行われ、
パリのパッシー墓地に葬られました。
最後までお読み頂きありがとうございました♪