ベルカント音楽学院

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ドビュッシー

ドビュッシー(1862-1918) は、パリ近郊の町の貧しい商人の家に生まれた。
カンヌにいた叔母がピアノを習わせてくれたという。
18歳のドビュッシーはチャイコフスキーのパトロンであったフォン・メック夫人との関わりがあり、メック夫人の長期旅行にピアニストとして同伴したり、チャイコフスキーやロシア5人組に影響を受ける。
また彼の貴族趣味(とことん趣味の良いものにこだわる人だった)も芽生えたという。
彼の性格は?というと、
気難しく自己顕示欲が強く、人付き合いが悪く内向的な一匹狼。
音楽院に入学してからは伝統を破壊しかねない言動に、担当教師のギローなどを困らせていたようだ。
また、女性関係においてのトラブルも絶えなかった。
2回も女性をピストル自殺未遂に追い込んでいる。
18歳の頃から弁護士の人妻と8年間の情事のあと別れ、27歳から同棲を続けていたガブリエル・デュポン(愛称ギャビー)とは、彼の数々の浮気により、ギャビーのピストル自殺未遂騒動の末に9年間で破局を迎る。
翌年にはギャビーの友人であるマリ・ロザリー・テクシエ(愛称リリー)に熱烈に迫り結婚するが、42歳頃から、教え子の母親、銀行家の人妻であるエンマ・バルダックと不倫関係になる。
※エンマは、フランス音楽界では有名人で、お金もあり、教養もあり、音楽の才能もあり、フォーレとも関係があったと言われている。
また悲劇が、、、リリーはコンコルド広場で自ら胸をピストルで打つ。幸いにも一命をとりとめた。
その後、2人は離婚する。
この事件がもとで、彼の子を身ごもっていたエンマとともに一時イギリスに逃避行することとなり、友人の多くを失うこととなる。
彼は、社会的信用をも失った。
特に当時パリ楽壇を握っていたサン=サーンスはドビュッシーを嫌い、彼が重要なポストにつくことをとことん阻んだ。
1894年の《牧神の午後への前奏曲》や1902年のオペラ《ペレアスとメリザンド》で成功し、彼の才能は確かに認められるが、そんなことから彼の稼ぎは一向に安定しなかった。
産まれて来た長女クロード=エンマ(愛称シュシュ)を溺愛し、『子供の領分』を作曲した。
エンマ・バルダックとは1908年に結婚する。
しかし、贅沢が身についているエンマやエンマの連子を養い、リリーへの年金払いなど重くのしかかり、慢性的な金欠状態は続き、夫婦間も冷たい関係となる。
そんな中、彼は癌に蝕まれ55歳で生涯を閉じる。
そして、その1年後、シュシュも13歳であまりにも短い一生を閉じてしまう。
彼の作品は詩的で清浄な雰囲気に満ち、《ベルガマスク組曲》より「月の光」は、この世のものとは思えないほど美しい。
美への憧れは他のどの作曲家にも劣らなかったのである。