今回はイタリア・オペラ界の巨匠、ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニ(1792- 1868 年)。
『セビリアの理髪師』や『ウィリアム・テル』で知られている。
ロッシーニはモーツァルトが亡くなった翌年にイタリアのペーザロという町で生まれ、8歳からボローニャで育った。
父親がトランペットとホルンの奏者で、母親は歌手。
裕福でない音楽家の家系に育つ。
14歳からボローニャ音楽院に入学し、楽器や歌、作曲法を身につけ、18歳には『結婚手形』を発表し、オペラ作曲家としてデビュー。
次々にオペラを発表し、23歳からナポリのサン・カルロ劇場の音楽監督に就任。
早くもヨーロッパ中でロッシーニ旋風を巻き起こすことになる。
彼はモーツァルトやベートーヴェンを尊敬しており、古典派志向。
作品も古典的ではあったが、聴衆の好みや時流を読み、感じ取るのに優れており、人々を楽しませるエンターティナーであった。
あまり苦労をせずに人気者になったロッシーニは、1824年にパリに移住し、1829年にオペラ『ウィリアム・テル』を発表すると早々にオペラの筆を降ろしてしまう。
イタリアで著作権のシステムが定着した頃で、大人気のロッシーニにはがっぽりお金が入ってきていた。
性格も温和で売れっ子だったため、女性にも人気があったが、リストのようにたくさんの女性がいたわけではない。
ひとり目の女性は年上でソプラノ歌手のイザベラ。
彼女はロッシーニの作品で出演し1822年に結婚。
しかし、イザベラの歌手としての衰えとともにだんだんと2人の仲は冷え切ってしまう。
ウィリアム・テルの公演後、再びボローニャに戻るが、その後、ロッシーニが単身パリを中心に活動。
そして、1832年2番目の妻となるオランプと親しくなる。
オランプはロッシーニとお金に苦労せず幸せな悠々自適な老後を過ごすことになる。
ロッシーニは、大変な美食家で有名、各地の名産品やワイン、シャンパンを買い集め、自らも厨房に入りさまざまなレシピを編み出した。
その名残でイタリア料理の”仔牛のカツレツ・ロッシーニ風”といったメニューがレストランに行くとある。
晩年には、毎週土曜日に始めた”料理と音楽の夕べ”を開催し、ロッシーニに招待された友人や貴族、芸術家などの著名人たちが集まった。
サン=サーンスやヴェルディ、ビゼー、リスト、クララ・シューマンなどの顔ぶれもあった。
リストはロッシーニの作品を弾いて観客を喜ばせた。
ディナーでは最高の食材をふんだんに使った料理が豪華に並べられ、食事の合間にはロッシーニのウィットに富んだ楽しい会話でお客を喜ばせた。
大変盛会となりロッシーニが76歳で亡くなる直前まで10年間も続いたそうです。